モーリー

2010年7月 8日 (木)

世々生々の父母兄弟

袖振れ合うも多生の縁」ということわざが有ります。
袖を触れ合うということも、隣に座るということも、その一つの結果が現れるには、どれほどの縁、どれほどの関係があったか知れません。

ましてや、隣に座るどころではない、親となり、子となり、兄弟となり、共に生きているという結果には、どれほどの因縁果あるか、知れません。それは、1日は2日、1ヶ月や2ヶ月、1年2年、いや10年、20年でもない、100年200年でもない、何千年というぐらいではない、多生・億劫・昿劫という生命の中での因縁があってのことです。
 親鸞聖人が教えられた仏教で説かれる人生観が知らされますと、みな、父母兄弟であり、懐かしい方々だと知らされます。

歎異抄には
「そのゆえは、一切の有情は皆もって世々生々の父母兄弟なり。」(歎異抄第5章)と書かれています。

袖が触れ合う、親子・兄弟の関係になるということさえも、「多生の縁」と言われるのですが、親鸞聖人は、
「噫、弘誓の強縁は、多生にも値いがたく」
と仰言り、
「ああ……なんたる不思議か、親鸞は今、多生億劫の永い間、求めつづけてきた歓喜の生命を得ることができた。これはまったく、弥陀の強いお力によってであった。深く感謝せずにおれない。」
と人生の目的を完成なされた驚きと喜びを仰言っています。

『なぜ生きる』の中の、親鸞聖人が教えられた人生観、生命観に立ったお言葉が溢れている事に、感動の1日でしたhappy01

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2010年6月21日 (月)

教科書に書いてあるから常識?

『「念仏を称えたら誰でも極楽へ往ける、と教えたのが親鸞聖人」という、広く世にひろまっている迷妄がある。』と書かれた一節があります。
歴史の教科書にまで載っている、親鸞聖人への大きな誤解です。
ですが、教科書に載っているから間違いない、と多くの人が信じています。私も高校生の時の日本史の教科書で読んで、高森顕徹先生から聞かせていただくまでは、この様に思っていました。

ですが、教科書に載っているから、本当に間違いないのでしょうか?

私も覚えましたが、「1192作ろう鎌倉幕府」の語呂合わせが懐かしいhappy01ですけど、最近の教科書には、鎌倉幕府の成立は1185年説が掲載されているそうですcoldsweats02
『いつのまにか変わってる 地理・歴史の教科書』とか、『こんなに変わった歴史教科書』という本まで出ています。間違いないと信じ込んでいる教科書の記述も、流動的のようです。教科書に書いてあるから常識、という一文は、通用しないようです。

本当に教科書に書かれていることが正しいかどうか?は、正確な根拠に基づいて判断せねばなりません。

親鸞聖人が本当に、「「念仏を称えたら誰でも極楽へ往ける、と教えた」方なのかどうかは、親鸞聖人にお尋ねするほか、ありません。

親鸞聖人直筆の正信偈には、
「速入寂静無為楽 必以信心為能入」
「正定之因唯信心」
極楽浄土に往くには、必ず信心を以て極楽へ往くのだと明らかに仰言っています。
実際に、歎異抄にも、
「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず、ただ信心を要とすと知るべし」(『歎異抄』第一章)
と、ハッキリ書かれています。

教科書に書かれているから正しいのか、それは正確な根拠に基づいて書かれている内容なのか、正しい判断が必要ですねhappy01

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2010年6月19日 (土)

草の根っこが深い

今日は芝生の草取りをしましたsportssportssports

タンポポ……小さな時は雑草とは思っていませんでしたが、芝生の中では雑草です。しかも、根っこが深いのです。。。そういえば、小学生の時に、タンポポの根っこがどれくらい有るか?と掘ったことがありました。途中で挫折したほど、深かったのを覚えていますcoldsweats01

タンポポの花が終わると、白くなって、息を吹きかけると フーーッと空へ舞って飛んでいきましたhappy01
綺麗だなあと思って眺めていたのが、実は、タンポポの作戦であり、また新たな深い根っこをはり、新たなタンポポが生育していきます。

同じタンポポを眺めているのに、あのころは「きれいだなあ」と思っていたのが、今は「なんて根っこが深いんだ……」と思っています。

この根っこが深い為に、芝生に必要な土の養分を持って行かれてしまうので、芝生を守る為にもタンポポ取りが必要なわけです。

黄色い花だけを取っても駄目です。根っこが残っていると、また元気よく生育していきます。深い根っこから取らねばなりません。今日は一日、タンポポの根っことの格闘でしたcoldsweats01
草取りは、骨の折れる作業だと、改めて知らされた思いです。

日常生活の中でも、「根っこが深い」と、よく使います。問題の根っこが深いと言えば、なかなか解決出来ない深刻な問題、改善の難しい悪い体質などを表します。表面だけを解決しても、根っこが残っていれば、問題は再発してしまいます。

草取り、、、本当は、根っこ取り。
いろいろな苦しみ悩みも、表面だけを解決していては、本当の解決にはならず、再燃します。
取り組んでいる問題と、深い関係があるなあ、と思いながらの一日でした。
苦しみ、悩みの解決に向けて、これからも取り組んでいきたいと思いますhappy01

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2010年6月18日 (金)

水道管の破裂で知らされること

6月17日、富山県高岡市で水道管の破裂による浸水事故がありました。
地元チューリップテレビのニュースからの引用です(記事はこちら

17日午前11時半ごろ、高岡市大坪町の国道156号線で、地下に埋設してあった水道管が破損し、道路が水浸しになりました。近所の住民から通報を受け、高岡市は急きょ水道管の取替え作業を行いました(引用終わり)

日頃は何も気にせずにひねっている水道の蛇口ですが、我が家の水道の蛇口をひねると水が出るのは、家まで水道管が引かれているから、なんですね。水道管が破裂すると、たちまち断水、水は出ません。水を飲むことも、料理を作ることも、顔を洗うことも、お風呂にはいることも、出来ません。目に見えずとも、地下に埋設されている水道管があったなればこそ、の恩恵であったと知らされます。そこには、水道管を作った人の苦労もあり、水道管の工事をした人もあり、どれだけのご恩があったか、知れません。

今、親鸞聖人のみ教えを聞かせていただけるのは、私まで親鸞聖人の教えを伝えて下された方がおられたから、こそであります。当たり前のように教えを聞かせて頂いていますが、私に届くまでにどれだけの苦労があったか知れません。

聞かせて頂けたご恩を知り、感謝し、少しでもご恩返しをさせて頂きたいと思いますhappy01

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2010年6月 6日 (日)

親鸞聖人のみ教えは、信心一つ。

この土日は、親鸞会館にて、親鸞聖人降誕会が勤修されました。
2日間、「聖人一流章」を通して、親鸞聖人90年間教えられた教えは、「信心一つ」であることを、懇ろに教えて頂きました。

親鸞学徒かどうか?は、親鸞聖人が教えられた信心を知るか否か?
親鸞聖人の教えをそのまま伝えられた蓮如上人は、

「聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候」

「祖師聖人御相伝一流の肝要は、ただこの信心一に限れり。これを
 知らざるをもって他門とし、これを知れるをもって真宗のしるしとす。」

そうして、御遺言には、

「あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり」

と勧めておられる事を聞かせていただきました。

一点の曇りもなく、信心一つが明らかにされている親鸞聖人のみ教えであることが、よくよく知らされましたhappy01

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2010年6月 1日 (火)

多生にも値えない先生

袖触れ合うも多生の縁だと言われますが、親鸞聖人が「多生」と仰言っているお言葉に、

「昿劫多生のあいだにも 出離の強縁しらざりき
 本師源空いまさずば このたびむなしくすぎなまし」

というお言葉があります。

 昿劫も多生も同じ意味ですが、そんな果てしない過去から、生まれては死に、生まれては死にを幾度と無く繰り返した、永遠の魂の歴史の中で、昿劫多生の間にもお会いできない先生にお会いできた喜びを仰言ったお言葉です。
 本師とは、本当の先生、まことの先生という意味です。源空とは法然上人のことです。

 人生において「先生」と言われる人に、何人も出会います。
 小学校、中学校、高校、大学の先生。野球やサッカーの顧問の先生、部活動の指導の先生、茶道や華道の先生、お医者さん、弁護士さん、いろいろな先生に出会い、その時、その時、教えてもらったことが多いのですが、「人生の師」どころでない、「多生の師」と言われる先生に、これまでお会いできたでしょうか……

「多生にもお会いできない先生にお会いできて良かった!」

 一生や二生では会えない先生とは、よほどの事を教えて下される先生に違いありません。
 永遠の魂の歴史の上に立たれて「多生にも値えない先生にお会いして、教えを受けることが出来て、本当によかった」と仰言っているのは、とても重みのあるお言葉だと、知らされます!wobbly
 いったい、何を教えて下される先生が、多生にも値えない先生なのでしょう?
 そんな親鸞聖人の教えを、重ねて聞法したいと思いますhappy01

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2010年5月30日 (日)

袖触れ合うも多生の縁

親鸞聖人の
「噫、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、真実の浄信は億劫にも獲がたし」
のお言葉を通して、「生きる目的」と「生きる目標、生き甲斐」の違いについて、詳しく聞かせて頂きました。

永遠に続く幸せが完成したぞー!という親鸞聖人の驚き、感動、が綴られているお言葉だとお聞きして、感動しましたhappy01

ここにも、「多生」という言葉が出てきますが、「多生」といえば思い出すのが、
「袖触れ合うも多生の縁」
という諺です。

袖というのは、洋服のソデのことではなくて、和服の袖のことです。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
より)

「無い袖は振れぬ」という諺もありますが、その袖です。(ちなみに、無い袖は振れぬとは、いくら出してやりたくても、ないものは出しようがない、という意味で、お金を援助してやりたいが……という時に使ったりします)

その袖が触れ合ったということは、その人と、相当近付いた状態です。他の人と触れ合っていても良さそうなものですが、その人と触れ合った。ということは、その人と、余程の関係があった、ということでしょう。縁が深かった、といえるでしょう。

どれくらい深かったのか?といいますと、それが、多生の縁ですから、過去世からずーっと、繰り返し生まれては死に、生まれては死にしてきた長い生命の流れの中での因縁ということです。そういう長い長い多生の中での因縁があったからこそ、今、袖が触れ合ったという結果が生じたのであって、その因縁を大事にしましょう、懐かしいではないですか、という意味で使われます。

小さいとき、この諺を聞いたときから、
「袖振れ合うも多少の縁」
だと思っていましたcoldsweats01 ……私だけでは無いかもしれません。。。。

「たしょう」と聞くと、「多少」しか知りませんでした。仏教を聞いて初めて「多生」という意味を知りました。親鸞聖人のお言葉で言いますと、「多生」を「億劫」とも言われています。

隣の人と袖が触れ合ったというのも、この世の人生だけのことではなく、多生の間に因縁があって仕組まれたものなんですね。そう思うと、聴聞の時に隣に座った人とも、多生の縁があったのですから、懐かしく思われますhappy01


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2010年5月29日 (土)

方言による誤解

先日、富山弁で「違います」を言うと……で、方言について触れましたが、方言を使うことについて、私も少し考えねばならないと思いました。

今の職場には、富山出身の人、大阪出身、埼玉出身、岐阜出身、京都出身、石川出身、愛知出身、……まだまだたくさんいると思いますcoldsweats01。それぞれが、方言で話をすると、かみ合わなかったり、指示の受け取り間違いをしたり、という可能性があります。

掃除が終わった後で
「この掃除機、直しといて」
と聞いたら、聞いた人は
「???掃除機を直す??どこが壊れているの?」
と思うでしょうcoldsweats01
関西の人たちは、「片付ける」ことを「直す」と言ったりします。

私も小学生の時、学校の先生から
「隣の教室から、ガムテープかってきて」
と言われたときに
「え??隣の教室は文房具店じゃないよ」
と思ったのを覚えていますが、富山弁では「かりる」ことを「かってくる」と言います。

些細な日常会話でもそうですから、さもありなん、です。

また丁寧に話をしているつもりでも、聞いた人は「乱暴な言葉遣いだなあ」と感じることもありますし、話し言葉ですから、公の場では不適切なこともあるでしょう。
親しみを込めて方言で話をしているつもりですが、何気なく使っている言葉が、聞く人によっては全く別な意味になる事がありますから、気をつけないといけませんねcoldsweats01

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2010年5月26日 (水)

富山弁で「違います」を言うと…

富山弁は、初めて聞く人にとっては分からない言葉だらけですが、富山弁で「違います」を言うと…

私の近くでよく聞くのは
「ちごとるにか」
「ちごとんにか」
「ちごちゅが」

通訳すると「違います」になりますが、初めて聞く人などは、チンプンカンプンでしょう。

親鸞聖人のお言葉を初めてお聞きした時も、親鸞聖人のような大学者の使われる言葉であり、しかも仏教専門の言葉ですから、今まで聞いたことが無い、みたことも無い、読み方も分からない、そういうお言葉がたくさんありました。

「平生業成」も、その一つですね。このように書いて「へいぜいごうじょう」と読みます。

相手に分かるように、読み方から、そしてその意味を、順番に説明してこそ、聞いている人に分かる話が出来るでしょう。
ついつい、専門分野の話を説明するときに、専門用語を使いがちですが、話をする目的は、相手に分かってもらうため。分かってもらって初めて、話した甲斐があります。話しやすい言葉は、聞いている人にとっては聞きにくい言葉、とも言われます。
浄土真宗親鸞会の講演会では、浄土真宗を最初から勉強したい人へも、親鸞聖人のお言葉を分かりやすく聞かせて頂けます。
親鸞聖人のみ教えは、ここで学べますよ。

ちなみに、あまり富山弁の分からない人のいる前では、富山弁は使わないようにします。言っていても、相手に通じていませんからdespair

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2010年5月25日 (火)

絶対に例外が無いんです。

「どんな結果にも、必ず原因がある」

これには、絶対に例外が無い、と厳粛に教えられるのが仏教であり、仏教の根幹が、この因果の道理であることを学びました。

「生まれた」ということも一つの結果に違い有りません。私ならば、富山県に生まれました。昭和という時代に生まれました。男に生まれました。
どこの国の、どの家庭に、いつの時代に「生まれた」か、ということは、私の人生に根本となる、大きな影響をもたらします。

地球には60何億の人が住んでいると言われていますが、60億人と比べたら、日本はわずか1億2千万人です。なぜその1億2千万の日本に生まれたのか?日本と言っても47の都道府県がありますが、なぜ人口わずか100万人の富山県に生を受けたのか?
考えずにおれないです。

基地移転問題でもめている政治も、上海万博で話題になっている科学の進歩も、医学も、文学も芸術も、原因と結果の法則の上に成り立っている事は言うまでもありませんが、その根本にあるのが、因果の道理です。

「どんな結果にも、必ず原因がある」

原因なしに起きる結果は、万に一つも億に一つも、絶対に無いんです。お釈迦様の説かれた仏教には、その原因と結果の関係が厳然と説かれています。終わってからも、聞かせて頂いたことを、法友と信心の沙汰をしました。お互いに、何度も確認をしたいと思いますhappy01

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