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2010年5月30日 (日)

袖触れ合うも多生の縁

今日は、テレビ座談会に参詣しました。

親鸞聖人の
「噫、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、真実の浄信は億劫にも獲がたし」
のお言葉を通して、「生きる目的」と「生きる目標、生き甲斐」の違いについて、詳しく聞かせて頂きました。

永遠に続く幸せが完成したぞー!という親鸞聖人の驚き、感動、が綴られているお言葉だとお聞きして、感動しましたhappy01

ここにも、「多生」という言葉が出てきますが、「多生」といえば思い出すのが、
「袖触れ合うも多生の縁」
という諺です。

袖というのは、洋服のソデのことではなくて、和服の袖のことです。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
より)

「無い袖は振れぬ」という諺もありますが、その袖です。(ちなみに、無い袖は振れぬとは、いくら出してやりたくても、ないものは出しようがない、という意味で、お金を援助してやりたいが……という時に使ったりします)

その袖が触れ合ったということは、その人と、相当近付いた状態です。他の人と触れ合っていても良さそうなものですが、その人と触れ合った。ということは、その人と、余程の関係があった、ということでしょう。縁が深かった、といえるでしょう。

どれくらい深かったのか?といいますと、それが、多生の縁ですから、過去世からずーっと、繰り返し生まれては死に、生まれては死にしてきた長い生命の流れの中での因縁ということです。そういう長い長い多生の中での因縁があったからこそ、今、袖が触れ合ったという結果が生じたのであって、その因縁を大事にしましょう、懐かしいではないですか、という意味で使われます。

小さいとき、この諺を聞いたときから、
「袖振れ合うも多少の縁」
だと思っていましたcoldsweats01 ……私だけでは無いかもしれません。。。。

「たしょう」と聞くと、「多少」しか知りませんでした。仏教を聞いて初めて「多生」という意味を知りました。親鸞聖人のお言葉で言いますと、「多生」を「億劫」とも言われています。

隣の人と袖が触れ合ったというのも、この世の人生だけのことではなく、多生の間に因縁があって仕組まれたものなんですね。そう思うと、聴聞の時に隣に座った人とも、多生の縁があったのですから、懐かしく思われますhappy01
この人生こそ、ともに生きる目的を完成し、ともに「人間に生まれてよかった」という生命の大歓喜を獲るところまで、聞法精進したいですね!がんばりましょうup

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